法律家の視点

藤田 耕三

 法律家というのは、庶民の目から見ると、何か近寄りがたい存在である。偉そうに見えることもあるし、時には訳の分からぬ法律の理屈をこねる人と見えることもある。いざというときには頼る必要があるかもしれないから粗末にはできないが、そうそう親密につきあう人でもない、というのが正直な気持ちであろうか。ところで、法律家の側から見ると、相手の知的レベルを法律的思考に対する理解度で計ろうとする傾向がないでもない。しかし、この世の中は、法律で成り立っているわけではない。法律は、この世の中がトラブルなしに過ごしていけるために考え出された一つの枠組みに過ぎないのである。法律家の盲点は、あまりにも法律に引きずられるところにある、とは言えないであろうか。

 我が国における実務法曹の人数は、たかだか2万人強であるから、100万人前後(企業内法曹等を含めて)のアメリカなどとは比べようもないが、両国の政治社会を見比べて、顕著な相違と思われるのは、リーダーシップを発揮する人材としての法律家の数である。たとえば、アメリカの大統領や国務長官を筆頭とする政治家には、数え切れないほどの弁護士出身者がいる。一方、我が国では、弁護士出身の有能な政治家がいないわけではないが、一国の政治社会のリーダーという点からいえば、アメリカと比べるべくもない。私がかって総理府で仕事をしていたときに聞いた話だが、政界では、「法律家出身の政治家は大成しない。」というジンクスをささやく人がいるという。なぜであろうか。

 法律家の思考と行動は、当然のことながら、法律という枠にとらわれる傾向がある。若いときに法律の勉強を始めてから、法曹としての活動をしている現在に至るまで、ずっと法律の空気を吸って生きてきたのだから、当然といえば当然のことであろう。しかし、法律漬けになって生活してきた点では、アメリカの法律家は、日本以上ではないだろうか。アメリカのロースクールでのすさまじい勉強ぶりや、ロー・ファームでのアソーシエートの激烈な競争を聞けば、正直そう思う。では、どこに違いがあるのだろうか。

 アメリカのロースクールを卒業して弁護士業務に従事し、現在は日本で外国法事務弁護士として、また、慶応義塾大学総合政策学部教授として活躍しておられる阿川弘之教授が、面白い意見を述べておられる。日本での法律とは、お上か何かから与えられたものであって、当然にこれに従わなければならないものと観念されるのに対して、アメリカでは、何が法律かということに対して、各人がそれぞれに意見を持ち、どうだ、こうだと議論したあげくに裁判所によって法律の中身が決められていくのだという。成文法の我が国と、基本的には判例法のアメリカという違いが背景にあるのではあろうが、法律それ自体についての感覚的な違いがあるのかもしれない。そうして、このことが、法律家の思考方法にも影響しているのかもしれない。

 法律家である以上、法律的思考方法から離れられないのは当然である。しかし、法律の枠にあまりにもとらわれ過ぎるのは、考えものではないだろうか。その枠自体の正当性についても考える視野の広さが必要であろうし、時には、法律の枠から離れる柔軟さが必要なときもあるのではななかろうか。法律自体が、必要に迫られて、「超法規的」などと言い出すこともあるではないか。以上が、法律家である私の自戒の想いである。 

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